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July 29, 2006

本を読むこと

このところ読書量が急増していて、我ながら良いことだと思っています。

家には買ったまま読んでいない本がたくさん溜まっていて、それらを消化しています。半年前までは勤めていた会社が遠くて、かつ仕事がやたら忙しかったので、思うように本を読むことができませんでした。電車で本を読み始めても、疲れているのですぐ寝てしまって、読みかけの本ばかりが増えていきました。そういう時期というのは新しい知識やものの見方が身につかないので、仕事も私生活も単調でつまらないものになりがちでした。仕事が忙しかったから仕方がないとはいえ、本を読めるくらいの時間的、精神的な余裕がないと良い仕事はできませんね。なので、ある程度の余裕をもてるような仕事のスタンスを自分自身で作れなければいけないと思います。

今は週1~2冊のペースでいろいろな本を読んでいますが、私は子供の頃、全くといっていいほど本を読みませんでした。何で人は本を読むのか、本気で理由が分かりませんでした。中学生のとき、国語の時間に「濫読」という言葉を耳にしたことがありますが、それこそ私にとっては意味不明だったのです。なので国語は苦手でしたが、受験勉強で文法だけはしっかり学んだので、そのことがこうして文章を書ける基礎になったのだと思います。

私が本を読み始めたのは高校2年生くらいからで、大学に入ってからはその量がまともになりました。そのときに読んだのはほとんど小説でした。江戸川乱歩が好きだったので、明智小五郎が登場する話は図書館で借りて全て読みました。それでも、本を読む意味というのは理解していませんでした。

社会人になっていろいろな人と出会い、いろいろな職業を経験すると、ものの見方が変わって、学生時代に退屈そうに聞いていた講義の教科を改めて勉強してみたくなって、たまに専門書を買うようになりました。心理学、生物学、経営学、古典など、大した数ではありませんが、学びたいという気持ちから本を読みました。

そして現在、私は遅ればせながら濫読というのを実行しています(20年遅いですね)。小説などの読みやすい本は1冊ずつ読んでいますが、経営戦略やコンピュータネットワークといった教本的なものは複数冊並行で毎日少しずつ読みます。なるべく偏らず、多様なジャンルの本を、平均して週に1~2冊のペースで読んでいます。今、私が思っている本を読むことの意義は、他人の経験を学習できるということです。私たちは、仕事においても私生活においても常に物事を判断して行動していますが、その判断の材料は経験と知識です。それには実際に自分が体験して身につけたもの、人に教えられたもの、そして本等で学習したものがあります。この中で、本だけは現在生きている人だけでなく、過去の人の経験を学習することができます。特に人の半生、国家や会社の歴史について書かれたものを読んで、それらの栄枯盛衰に触れたりすると、物事の本質というのがそれまでよりも見えるようになった気がします。

最近、周りに「自分は本を読まない」という人が非常に多いですね。会社で人の上に立つような人でも平気でそんなことを言ったりします。私は本もろくに読まないような人についていきたいとは思いません。本を読むということはそれくらい大事なことだと思うのですが、どうなんでしょうね。本は他人の経験を教えてくれます。本は素晴らしいです。

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経営戦略と私

最近、実践していることがあります。

それは最近読んだビジネス書に書いてあったことなんですけど、その本には、起業した人を成功に導くためのノウハウが書かれていました。小さな会社がどうしたら競争に勝てるのか、コンサル会社を経験した著者が具体的に例を挙げてノウハウを紹介しています。時間の使い方、営業エリアの選び方、客層の選び方等、戦略的なことがいろいろ書かれているのですが、私にとって最も印象的だったのは顧客戦略の章でした。いかにお客さんに気に入られ、末永くリピーターになってもらうかということが述べられていたのです。

そこには、お客さんになってくれた人にさらに気に入ってもらうには、プラスアルファのサービスを実行することが一番の近道であると書かれていました。プラスアルファのサービス、それは、お客さんが思っていること以上のサービスで、面倒だと思う気持ちをぐっと抑えて、報いを求めない親切な行動をすることです。そんなことが本の最終章近くに書かれていたので、ビジネスには戦略が重要なのは当然ですが、それ以上に心が伴わないと上手くいかないのだと思いました。

近頃、会社や私生活で考えさせられることが続いていました。それは、自分が正しいと思ったことで、かつそれが客観的に見ても正しいとしても、それを相手に真正面から主張すると、必ずしも上手くいかないということです。理詰めでは勝てるのですが、結果的に、相手との関係が悪くなって嫌な思いをしてしまうのです。自分が下手に出て上手く立ち回ってもいいのですが、相手が間違っているのに何で自分がそこまでしなければいけないのかと考えてしまい、自分がどうあるべきか思いを悩ませていました。そんなとき、顧客戦略がひとつのヒントをくれたのです。仕事、私生活に関係なく、自分と接する相手全てをお客さんとみなして、相手の立場になってものを言ったり、行動するように心掛けてみたのです。

先日、ある会社外部の方から問い合わせを受けたのですが、調べて口頭で回答すれば済む話だったのですが、現場の写真を撮り、簡単に資料化して分かりやすいように回答を出しました。その後、その案件に関して覚書を締結する運びになったのですが、急ぎたいという先方の要望の応えるため、相手先の会社まで出向いて書類を届け、さらに至急の捺印に協力してくれた総務のスタッフにお礼のメールも出しました。振り返ってみると、自分でもすごく親切で丁寧な対応だったと思いますが、「プラスアルファ」に費やした労力はそれほど大したことでもない気がします。そんな小さな気遣いと手間暇で、大きな好印象を相手に与えられたわけです。確かに1円にもなりませんけど、相手の人には感謝されましたから、私はこれで良かったと思います。実際、新しい心がけを始めてからは公私共に嫌な思いをすることが減りました。

経営戦略の本というのは面白いもので、孫子の兵法とか、ランチェスター法則といった、過去の軍事戦略の話がよく引用されます。戦争も経営も、過去も現在も、人のやることには変わりがないのですね。私は戦争も経営もやりませんが、それらを学ぶことはとても有意義なことであり、日常に生かせる教訓がたくさん身につくのです。

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July 21, 2006

初めて契約を取った日

今、会社経営の本を読んでいるのですが、その中でセールスの話が出てきたのです。現在、私は技術系の仕事をしておりますが、その前は営業をやっていたのです。なので、ふと、初めて契約が取れた日のことを思い出しました。

大学時代、私は広告代理店で事務のアルバイトをしていました。その会社では広告の制作は全て外注でしたので、社員の人はほとんど営業職でした。彼らはお客さんに商品の魅力を伝えることはもちろん、相手の性格を読み、競合会社との売り込み合戦に勝たなければなりませんでした。喜ぶ姿、苦しむ姿、涙を流す姿など、私はそこでスタッフの様々な表情を見ましたが、自分にはとても務まらない職業だと思いました。私は他人と話すことが苦手でしたし、増してや「商品を買って下さい」などと人にものを頼むなど絶対に無理だと思いました。その後、私は会計事務所に就職が決まりアルバイトを辞めることになったのですが、そこの会社の人から「よかったね。これからはそういう堅い職業がいいよ」と言われたことが印象的で、今でも覚えています。

私は会計事務所に2年勤務した後、父の紹介でケーブルテレビの会社に入ることになりました。しかも、職種は営業です。大きな会社に入れるということで、職種のこだわりを捨て、苦手な世界に飛び込むことにしたのです。私は東京の西の方に配属されました。当然ながら周りは知らない人ばかり、そして土地勘も全くないところでした。入社後、私は2日間の研修を終えて、早速、フィールドに放り出されました。

私が契約を取る相手は個人宅でした。エリア内に友人、知人は全くいませんから、正にゼロからのスタートでした。会社から言われた営業手法は、各家を訪問し、「近隣のケーブル敷設工事が終わりました。工事の際はいろいろご迷惑をおかけしましたので、ご挨拶に回らせていただいております。粗品をお渡ししたいのですが。」と言ってお客さんに出てきてもらい、粗品のマグネットとパンフレット類を一緒に渡して加入を勧めるというものでした。1件目に訪問した家は今でも覚えていますが、呼び鈴を押すのに何回もためらいました。頭の中で喋る文章を何回も復習して、「よし、大丈夫」と思っても、「ちょっと待てよ」とまたためらう、そんな繰り返しでした。ようやくその気になって呼び鈴を押すと、家の人が応答してくれたので緊張しながら予定通りに用件を喋りました。すると、意外にも門まで出てきてくれて、私の話を聞いてくれました。すると、この「話を聞いてくれた」ことが何だか自信になり、次の家へ進みました。こうして1日に10件から20件程度面会していきました。途中、何度か説明を省略して、いきなり「ケーブルテレビ開局の挨拶に来ました」と言って面会を試みた家もあったのですが、家の人は外に出てきてくれませんでした。やはりそれでは「セールスにきました。出てきて下さい。」と言っているのと同じで、警戒されてしまうのです。

数日が経過し、私は未だ「エリア開拓中」という気分で仕事に取り組んでいたのですが、部長から「そろそろ出そう?」とプレッシャーをかけられ始めて、初めて「結果を出さなきゃ」という少し焦った気持になりました。でも、ノートに書いた訪問記録を見ると見込み客がゴロゴロいるのです。そこを順番に再訪すれば2、3件はすぐに取れると思いました。それに、気が付くと「自分が知らない人と話すのが苦手」という意識が全くなくなっていて、むしろ会話をすることが楽しいと思うようになっていました。他の営業マンに同行した際、意外に「自分の説明の方が易しくて分かりやすい」と思ったので、そのことも自信になりました。

エリアを回り初めて約1週間後の土曜日のことです。私はそれまでに見付けた見込み客を順番に再訪していました。が、しかし、意外なことに、初回に面会したときよりどのお客さんも明らかに反応がトーン・ダウンしているのです。人によっては玄関の扉も開けてくれません。「なぜだ」とショックを受けながら、契約を取らなければいけないプレッシャーに背中を押され、さらに訪問を続けましたが、いくら回っても結果は同じ。人はその気がなくても、相手にいい顔をしてしまうのです。相手を傷付けたくないからなんでしょうね。愚かな私はそんなことをこのとき初めて知ったのです。土曜、日曜は営業マンにとってはかきいれどきです。しかし、私はこの日契約を取ることができませんでした。

その次の日。ノートに書き記された大量の見込み客、しかし、実際は見込み客ではなかったのです。行き場を失った私は、再び、エリア開拓を再開しました。1件1件順番に訪問し、マグネットとパンフレットを配るのです。ところで、未経験かつ自信も全くなかった私が、あっという間に営業職に溶け込むことができたのは、GM(ゼネラル・マネージャー)に言われたことが大きな自信になったからです。それは、「営業マンは喋るのが上手い人が優秀だとは限らないんだ。無口で口下手でも契約をたくさん取ってくる人はいる。喋りじゃない。相手の懐に飛び込むことができるかなんだ。人はそれぞれ性格が違うんだから、自分に合った方法で相手にぶつかっていきなさい。」と言われたことです。今、こうして書いていても、なんて素晴らしい助言なんだろうと感動してしまいます。さて、エリア開拓を再開した私ですが、見込み客が全滅した以上、この日に契約を取るには初めて会った人に即決してもらうしかありません。営業初心者には至難の業です。そして日は暮れて、気が付くと時計は夜の8時を指そうとしていました。このときは夏でしたので、夜でも窓を開けている家が多く、雰囲気が開放的でしたから、夜間でもセールスに回ることができました。「何としても今日は契約を取るんだ」、私は気合を入れ直し、訪問を続けました。

そして、ある一軒屋に挨拶に伺ったところ、ちょうど家の玄関が開いていたので、そのまま中に入れてくれました。すると、壁には広島の江藤のポスターが貼ってありました。私は商品の話はそこそこに、ポスターのことを尋ねました。「私は広島ファンなんですけど、江藤選手のファンなんですか」。すると、その家の奥さんが「息子が関東高校で江藤君と一緒に野球部だったんです」と答えてくれました。そして、次々と家の人が出てきて、「ケーブルテレビ?」と興味津々な表情でパンフレットを覗き込んできました。私は自分の得意分野である野球をネタに、「試合がたくさん見れるようになりますよ」とケーブルテレビのある楽しい生活を語りました。このお客さんは遅かれ早かれ自分からケーブルテレビを契約したかもしれませんが、運良く、この日、私が契約を取ることができました。契約第1号です。お客さんの家を出るとき、もう9時近くになっていました。会社に戻ると、数人の仲間が待っていてくれて、「どう、取れた?」と聞いてきたので、私は「1件だけ」と照れながら答えました。すると、「おめでとう」と笑顔で祝福してくれたので、とても嬉しかったことを昨日のことのように覚えています。

そして翌月、私はデビュー2か月目で何と契約数1位を獲得しました。その後、私は営業職を約3年間続けましたが、そのときの経験はかけがえのないもので、現在の私を支えている大きな要素のひとつです。私はその第一歩である契約第1号のことを一生忘れないと思います。

最後に、GMの印象的なお言葉をもうひとつ。ミーティングのときだったのですが、GMが「Y君、君は以前、自動車を売っていたそうだけど、自動車を売るのとケーブルテレビを売るのは違うか?」と聞きました。私は、商品による売り方の違いを説明したいのだと思いましたが、Yさんは「いいえ、同じです。」と答えました。予想外な答えに私はそのあとの展開が分からなくなりましたが、GMは続けました。「そうだな。我々はお客さんにものを売ってるんじゃないんだな。Y君だったらY君という人をお客さんに売ってるんだ。だから商品が何であろうと一緒なんだ。」と。

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July 19, 2006

愛しのキャンディーズ

ここを開設してから、何度キャンディーズのことを書こうと思ったことか知れません。でも、思い入れが強くて、中途半端に書きたくないという気持ちから、なかなか取り上げることができませんでした。

先日、友人から「BSでキャンディーズの特集やるよ」というメールが届きました。私は喜びいっぱいの思いで録画予約のセットをして、一昨日、無事、ディスクに収めることができました。その番組は「BSエンターテインメント わが愛しのキャンディーズ」といいます。何故この時期にこのような特集が組まれたのかは分かりませんが、現在、キャンディーズの歌を映像付きで楽しめるソースは解散コンサートのDVDくらいしかないので、ファンにとっては嬉しい限りです。ありがとう、NHKさん。

特番の内容は、紅白歌合戦やその他歌番組、コンサートで歌われたシングル曲を綴りながら、彼女たちの歴史、共演者や作家のコメントを散りばめたものでした。実は、私が真剣にキャンディーズのことを調べたり歌を聴き始めたのは結構最近なんです。キャンディーズが解散したのは1978年4月で、そのとき私はまだ小学校に上がったばかりでした。なので、キャンディーズが活動していた時期は、私が幼少の頃だったのです。

解散から20年後の1998年、私はテレビでキャンディーズの特番を見ました。そのとき、キャンディーズの曲には優秀な作家やスタジオミュージシャンが多数参加していたことを知り、CDやレコードを集め始めました。それらの音源から聴こえてくるのは生き生きとした楽器の生音、そして楽しそうな歌声でした。私は人の手で作り上げられた作品の素晴らしさに心を打たれました。その後、解散コンサートのDVDを見て、私のキャンディーズに対する思い入れは決定的なものとなったのです。

私は東京生まれですが、生まれた直後から7年間は奈良県の生駒というところに住んでいました。その期間とキャンディーズの活動期間はほぼ一緒なので、私がキャンディーズのことを思い出すと、どうしても生駒の風景が一緒に甦ります。そんな自然に囲まれていた幼少の頃の記憶、それは私にとって昭和の記憶の象徴でもあるのですが、キャンディーズの歌はそんな記憶を呼び起こしてくれるのです。

最近、都電のことが気になって調べているのですが、それは、私の心の故郷が昭和にあるからだと思うのです。もっというと、昭和の記憶の中です。そこには私の原点があるはずで、自分を見失ったときにそれを正す答えもその中にあると思うのです。キャンディーズも都電も、私にとってはそんな自分の原点に導いてくれる大切な存在です。今回の特番を見ていると、懐かしい気持ちでいっぱいになり、涙が出そうなくらいでした。リアルタイムで見ていたときの記憶はあまりないのに不思議です。

キャンディーズの音源を集めていくうちに、「春一番」や「年下の男の子」といったアイドル歌手としてのヒット曲は、彼女たちの音楽活動の一面に過ぎないんだということが分かりました。ライブ音源やアルバムを聴いていると、洋楽のカヴァーやライヴを盛り上げるアップ・テンポの曲等、実に幅が広いのです。解散コンサートではEarth,Wind&Fireの「宇宙のファンタジー」も披露していますが、3人のハーモニーが実に美しく聴き応えがあります(DVDには収録されておらず、CDに入っているが廃盤)。また、キャンディーズのサウンドを支えているMMP(後のスペクトラム)の存在も忘れるわけにはいきません。コンサートはもちろん、歌番組においてもキャンディーズの演奏を担当し、勢いがあって、ストレートな生の音を楽しませてくれました。解散コンサートではホーン・セクションだけで6人の姿が見えましたが、現在では考えられない豪華な編成です。

調べれば調べるほど、キャンディーズはかわいくて、明るくて、楽しくて、素晴らしい存在だったということがわかります。1978年4月4日、「本当に私たちは幸せでした」という声を残して、キャンディーズは後楽園球場のステージ中央から泣きながら消えていきました。私はその最後の姿をDVDで見たのですが、衝撃的で暫く頭から離れませんでした。

キャンディーズ解散から今年で28年だそうです。何年経っても、私の中でキャンディーズの歌が色褪せることはありません。心の原点に導いていくれる歌なのですから。

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July 17, 2006

根津美術館

最近、根津嘉一郎という人に関する本を読みました。東武鉄道に興味をもったことがきっかけで根津さんの名前を知ったのですが、この方は東武鉄道の初代社長です。当時、「ポロ会社」といわれ倒産寸前だった東武鉄道の社長に就任し、見事再建を成功させた方なのです。その根津嘉一郎が収集してきた美術品が保存、展示されているのが青山にある根津美術館です。

根津美術館には日本庭園もあるらしく、美術品の見学と同じくらい散策を楽しみにしていました。本当はこれからその感想を書くはずだったのですが、表参道駅から美術館に向かう途中、「根津美術館は改築工事中で平成21年まで休館」という掲示が目に入りました。残念ですが、仕方がありません。でも、せっかくなので外観だけでも見ようと思い、とりあえず現地へ向かいました。

行き方は簡単で、表参道から西麻布方向へ真っ直ぐ進むだけです。私はあまりこの地域には馴染みがなく、単に「お洒落な町」というイメージしか頭になかったので、「場違いなんじゃないか」という気持ちを背負いながらとりあず歩いていきました。道の両側にはブティックのショーウィンドウが並び、賑やかながらも落ち着いた雰囲気の並木道です。暫く進むと、「何だ、これは!!」と言いたくなるような全面ガラス張りのビルが目の前に現れました。クリスタルの陶器をそのままでっかくしたような建物です。近づいてみると、そこには「PRADA」の看板がありました。実は、私が以前使っていた財布はPRADAだったのですが、こんな建物を見てしまうと庶民には近寄り難いブランドに思えてしまいます。ちなみに、現在は三越で買った和製ブランドの財布を使用中です。

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PRADAを過ぎて、もう少し歩くと右角に根津美術館の敷地が見えました。外周は石塀に囲まれていて、その向こうには六本木ヒルズが見えます。六本木ヒルズ、そして美術館の正面を撮影しました。
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美術館には入れないので、お次は隣にある長谷寺へ行ってみようと思いました。奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺に続いて、ここで紹介する長谷寺はこれで3つ目になります。長谷寺の敷地は根津美術館の隣なのですが、入口が全く別方向で、両方とも敷地が広大なので根津美術館から5~6分歩きます。山門をくぐり、真っ直ぐ進むと本堂です。その前に立ち、お参りをすると、お堂を見ながらその場の空気を吸い込みました。すると、木の匂い、畳の匂いが無の境地に導いてくれました。暫くそのまま立っていると、奥で物音がして、お坊さんが何やら作業を始めたので、私はその場を去りました。
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お参りが済んだので帰ろうと思い、どこか近くの駅に出ようとあてもなく歩き始めました。この一帯はなぜか高い建物がなく、比較的遠くまで見通しが利きます。そのせいか、ひと昔前の東京の街並みの中にいるような気がしました。六本木通りに出ると、その上には高速道路が通っているのですが、それまで背の低い街の中にいたせいか、それがもの凄く高く、そして大きく見えました。六本木方向に向かって見上げるように坂を上がっていくと、道沿いに木があって、その上に高速道路が見えるのですが、ずっと高いところにあるので単なる巨大な影に思えました。そして、歩いているうちにその巨大な影が山のように思えてきて、道沿いにはお店が並んでいるので、山寺の参道を歩いているような気さえしてきました。私は「面白い」と思いました。東京の中心にいるのに、旅先で散歩を楽しんでいるような気がしたからです。
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外苑西通りを越えると、左手に森が見えたので、左へ折れました。帰ろうという気はどこかへ行ってしまったようで、気の向くまま、興味に誘われるままに歩き続けることになりました。これは私の癖でして、面白そうな道を見つけると、時間や疲労を忘れて気が済むまで歩いてしまうのです。旗本退屈男の「退屈の虫」ならぬ「散歩の虫」といったところでしょうか。
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「なんだろう」と思ったその森は、近づくにつれその規模が想像以上に大きいことがわかりました。青山周辺で大きい森、私はすぐに「青山墓地だ」と思いましたが、その通りでした。多分、来たのは初めてです。そのまま直進して坂を上がると、青山墓地中央という交差点があり、直進すると青山一丁目、右へ行くと乃木坂トンネル、左へ行くと表参道へ出る分かれ道です。右を見ると、すぐ先に立派なトンネルが見えます。私は左を選択し、表参道の方に向かいました。暫く進んで森を抜けると、視界が開け、先には橋がありました。橋の下には外苑西通りが走っているのですが、写真のとおり結構高低差があります。坂道があったりトンネルがあったり橋があったり、この辺の起伏の状況が伺えます。橋の下には集落とも思えるような家々や緑が見えて、郊外にでも来たように錯覚してしまうくらい、ひっそりした雰囲気を感じました。
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そのあと、私は外苑前まで歩き、あまりに喉が渇いたので「ebian」という喫茶でソーセージをつまみにビールを飲んで、そして帰りました。青山周辺の地理勘が身についた東京小旅行でした。

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東葉高速線

私は千葉県八千代市の場所をイメージするのが苦手です。習志野市なら津田沼駅の方とか、船橋市なら船橋駅の周辺とか、イメージが沸きやすいのですが、八千代市にはJRの駅がないので、そのせいかもしれません。

平成8年、その八千代市を横断する東葉高速鉄道が開通しました。私は2年半前まで南行徳に住んでいて、同線が地下鉄東西線と乗り入れしているわけですから、当然一度くらい乗っていてもいいようなものなんですが、実は一度も乗ったことがありませんでした。なので、昨日、初めて乗り鉄してみました。

九段下から快速東葉勝田台行きに乗ったのですが、やってきた車輌が5000系。現在は新型車輌への置き換えが進み、この車輌も数が少なくなっているようですが、その5000系が私を迎えにきてくれたのかと思うと感慨深い気持になりました(電車は単に順番でやってきただけなんだけど…)。この日乗った車輌も、きっと私が小学生の頃から何回も自分も運んでくれたのでしょう。

さて、西船橋を過ぎるとここから先が東葉高速線です。同線は西船橋を除くと8駅あり、地下と地上を出たり入ったりしますが、割と外の景色を楽しめると思います。最初は飯山満(はさま)駅(千葉県船橋市)の前後で外へ出ますが、瓦屋根の家や田園風景が広がり、のどかな気分にさせてくれます。そのあと北習志野、船橋日大前を続き、それを越えると八千代市に入ります。八千代市に入ると開発中の住宅、商業施設等がたくさん目につきました。これからもまだまだ人口が増えて発展しそうな様子です。イオン、イトーヨーカドー、アピタ等、大規模なショッピングモールが目につきます。ただ、八千代市の限られた沿線沿いにこれだけたくさん大規模商業施設が集中して、そんなにお客さんが来るのでしょうか。電車から見ている限りでは、線路の周辺くらいしか開けていないようなんですが。

終点の東葉勝田台は地下駅で、京成線に乗り換えができます。西船橋から約20分です。ここは八千代市の東の端、地図を見ると隣は佐倉市です。私の中では佐倉といえばほとんど成田、千葉駅のかなり奥の方なはずなのに、八千代の隣が佐倉とはこれ如何にという感覚なのですが、それは、東京から成田までの総武線のルートが千葉を経由しているため、かなり大回りだからそう思うわけなんですね。総武線を基準に考えてしまうと、船橋-津田沼-幕張-千葉-四街道-佐倉-成田と続くわけですが、地図を見ると船橋-八千代-佐倉-成田なんですね(おおざっぱですが)。つまり私の感覚が間違っているわけで、千葉を経由しなければ佐倉や成田は思ったほど遠くはないのです。平成22年には、東葉高速線よりも北側を走る北総線ルートが成田空港まで延伸されますが、千葉を経由するJRルートよりも、東京から成田が近いわけです。

少し話しがそれましたが、東葉高速線は都心部にとって八千代市を少し身近な存在にしてくれたのではないでしょうか。ちなみに、東葉勝田台から日本橋までは50分くらいかかります(朝のラッシュ時はもう少しかかるかもしれません)。やっぱり、遠いな…。

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<写真は東葉勝田台駅と西船橋駅>

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July 15, 2006

DD51

私はたまに歩いて会社に行くのですが、途中、砂町銀座から清洲橋通りの方へ抜けるため、貨物線の線路の下をくぐるのです。高架下の天井は私の背の高さでぎりぎり普通に歩けるくらい低いのですが、そこを抜けて線路の方を振り向くと、毎朝決まった時間にDD51というディーゼル機関車が停車しています。その位置は駅というわけではないのですが、数年前に廃止になった小名木川貨物駅があった場所なので、その名残で時間調整があるとそこで発車待ちをしているのかもしれません。写真の背後は広大な更地でありますが、そこが駅の跡地にあたるわけでして、現在、開発が行われています。将来は商業施設、居住施設、医療施設等ができるそうです。

私は毎朝ここに停車しているDD51がとても好きです。子供の頃は好きな車輌というのがあって、自分は千代田線が格好いいと思って憧れていましたが、大人になってからは別にそんなことを意識して電車を見たり乗ったりすることはありませんでした。しかし最近、味があったり、愛らしかったりする乗り物を見つけると、ずっと見ていたくなるのです。特にこのDD51の形と色は独特で、優しい雰囲気をもった働く乗り物という感じがしてとても好きになれます。動物に例えるなら、カバといったところでしょうか。

この車輌も老朽化のため数が減ってきているそうですが、どうかこれからも会社へ行く私を見守り続けて欲しいと切に願う次第であります。

さて、私がDD51を見ている江東区の線路なんですが、名前を小名木川貨物線といいます。新小岩操と越中島貨物を結ぶ線路で、JR貨物時刻表で見ると(もってるのかよ!!)、1日1往復しているようです。この線路、昔は晴海まで延びていました。その名残を追って跡地を歩くと、本当に貨物線が走っていたのだと実感させられます。今度、写真を撮ってきたらまた紹介したいと思います。

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July 07, 2006

南野陽子「GARLAND」

南野陽子の音楽作品の絶頂期は1987年から1989年であると私は思っているのですが、先に紹介した「GLOBAL」はその中心の1988年の作品で、オリジナル・アルバムでは最高傑作といえるでしょう。そこで、せっかくなので「GLOBAL」の前後の作品についても紹介しておきたいと思います。

今回紹介する「GARLAND」が発売されたのは1987年11月で、5月に発売された「BLOOM」に続いてこの年2枚目のオリジナル・アルバムになります。前作「BLOOM」は大ヒット曲「話かけたかった」を収録していたこともあり、ナンノのオリジナル・アルバムでは一番売れた作品でしたが、アルバム全体としては垢抜けない印象がありました。しかし、この「GARLAND」からは楽曲、特にメロディーの質が格段に上がり、その後も「GLOBAL」「GAUCHE」と秀作が続きました。ちなみに、タイトルの頭文字に「G」が多いのは偶然ではなく、意識してそうしていたようです。特に意味はなかったように記憶していますが。

「クリスマス」や「雪」など、冬をイメージしたタイトルや歌詞が多く、発売時期からしても半クリスマス・アルバムといってよいかもしれません。でも、年が明けて春前までは通学のときに聴いていました。サウンド面では「GLOBAL」にはかなわないとしても、メロディーの質は全アルバムで一番高いと思います。なので、シングルがたくさん含まれていると思いがちですが、実は「カナリア」(「秋のIndication」の別バージョン)1曲だけしか入っていないのです。ナンノのオリジナル・アルバムはあまりシングル曲を収録しない性格があって、「吐息でネット」「はいからさんが通る」「楽園のDoor」なんかもベスト版にしか入っていないんですよね。

<曲目>
1. 雪の花片
2. 昼休みの憂鬱
3. メルヘン・ロード
4. 神様がいない月
5. 八重歯のサンタクロース
6. 夕ぐれのロマンス達
7. カナリア
8. 真夜中のメッセージ
9. 白夜のひまわり
10. 恋人達のクリスマス
11. ひとつ前の赤い糸

こうして曲目を並べると、本当に楽曲の宝庫だと思います。アレンジは時にシンプル、またある時は大胆で、発売から18年以上が経ちましたが、言うことナシです。「懐メロ」としてでなく、冬のスタンダードとして今でも十分に楽しめる作品です。

私が特に好きなのは「白夜のひまわり」です。多分、打ち込みドラムだと思うのですが、その耳あたりが程よい刺激で気に入っています。坦々としたリズムなんですが、他の曲がメロディアスなので逆に目立ちます。このアルバムのアレンジは全曲を萩田光雄が担当していますが、引き出しの多さは見事です。「神様がいない月」のクラシカルで劇的な展開が印象的です。

以下のファンサイトを参考にさせていただきました。
http://www2.neweb.ne.jp/wd/mitubosi/yoko/

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July 05, 2006

南野陽子「GLOBAL」

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久しぶりの音楽ネタです。

家にある何百枚ものCDの中でも、聴いた回数の多さでは5本の指に入る入ると思います。このアルバムが発売されたのは1988年6月、私が高校2年生のときでした。南野陽子のCDを買ったのはこれが初めてだったのですが、とにかく自分の趣向にぴったり合って聴きまくったのを覚えています。

自分の趣味は基本的に現在も変わっていませんが、上品で明るい雰囲気の女性Vocalの音楽が好きです。この「GLOBAL」は、そんなエレガンス・ポップの王道を行く作品で、今聴いてもその質の高さには唸ります。当時、南野陽子はアイドルとして絶頂期でしたから、作品に人も資金も集まりやすい状況にあったと想像できます。実際、このアルバムは海外レコーディングですし、生音を基調に国内外の優秀なミュージシャンが多数参加しています。クレジットにちょっと目を通すだけでも、島村英二 (Ds)、倉田信雄(Key)、吉川忠英(A gu)、斉藤ノブ(Per)、今剛(E gu)といった名前がゴロゴロ載っているのです。しかし、作品は決して華やかさを押し付けるようなものではなく、質にこだわって丁寧に作り上げられた印象を受けます。「グローバル化」なんていう言葉がメディアによく登場するようになったのもこのアルバムが出た頃かそのあとくらいだったと思いますが、この作品を聴いていると、そんな言葉のとおり、広がりのある世界観を楽しませてくれて、大きな気持ちにさせてくれます。

このアルバムは曲のひとつひとつがとても秀逸なのですが、それでいてアルバムの流れも自然に綺麗にまとまっています。全体としてはストリングスの印象が強く残り、それがエレガントさを深めていると思います。曲調もバラエティに富んでいて、メリハリがあり、何回聴いても聴き手を飽きさせません。シングル曲は「あなたを愛したい」だけですが、どれがシングルになってもおかしくないくらいメロディーの宝庫です。実際、多数の曲がCM(富士通、ONKYOなど)で使用されました。雰囲気は8曲目の「SPLASH」に象徴されるようにリゾートチックで、さすがニューヨーク・バハマでの録音が含まれるだけあります。私も修学旅行のときにウォークマンで聴きましたが、是非外で聴きたい夏の定番です。

それにしても、このアルバムは一体何回聴いたのでしょう。買った当初は1日に2回も3回も聴いていたし、現在でもたまに聴きますから、もしかしたら1,000回超えてるかもしれません。冒頭で5本の指と書きましたが、あとはアルフィー「THE BEST SONGS」、高橋由美子「Tenderly」、山下達郎「僕の中の少年」「JOY」、そんなところでしょうか。

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July 04, 2006

おいしい麦茶

夏はビール。しかし、冷たいお茶もよいものです。私の場合、おいしいお茶があれば、ビールを飲みたいという欲を抑えることができます。

緑茶や烏龍茶はカフェインが含まれていますので、あまり飲みすぎると胃によくありませんが、麦茶はノンカフェインですので、その点、安心して飲むことができます。特に私は水分を大量摂取しますので…。

麦茶はティーバッグや豆を買ってきて家で作るのがよいのかもしれませんが、私は紙パックの既製品を買ってきます。コンビニやスーパーで買ったものをいろいろ飲み比べてみましたが、面白いものでどれも微妙に味わいが異なります。

私が最もお薦めなのが、西友で売っているトモゑ乳業製の「むぎ茶」です。
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「乾いた喉を潤す清涼感」と「麦のコクの味わい深さ」の両方を満足させてくれます。飲んでいるときには清涼感があって、コクは後味で感じさせてくれるのです。この感覚がやみつきになってしまい、この季節は1日1本(1L)のペースで消費しています。確か100円くらいです。

サンクスで売っているエルビー製の「むぎ茶」もコクがありますが、こちらは飲んでいるときにコクを感じ、後味はスッキリしています。コク重視の場合は後味で感じる前者の方がよいと思います。ロー○ンで売っている麦茶は全くコクがありません。「麦茶味の水」みたいな感じで私はダメでした。

さあ、健康のため、お金節約のため、麦茶を飲んで酒量を減らしましょう。

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July 02, 2006

都電復活計画

その昔、東京の中心とその周りには、都電の線路が張り巡らされていました。品川、銀座、日本橋、上野、浅草など、街の風景を写真に撮れば、そには必ず都電の姿がありました。しかし、自動車が増え、地下鉄が整備され、やがて都電はその役割を追われ、昭和47年頃までに荒川線を除く全ての路線が姿を消しました。私が誕生するのと入れ替わるように。

多分、私は都電を見たことがないし、乗ったこともないはずなんですけど、都電の本に載っている昔の写真を見るとなぜかとても懐かしい気持ちになります。東京生まれだから自然にそう思うのかもしれません。乗ったことも見たこともないけど、私は都電が大好きです。

最近、近所の明治通りや永代通りを見ていてよく思うのが、それらの通りに今も都電が走っていたとしても、全く違和感がないんじゃないかっていうことなんです。路面電車が走っている街の雰囲気は、どことなく魅力があります。それに、乗り降りしやすいから高齢者の方も移動しやすいだろうし、排気ガスも出ないから環境にもやさしいと思うのです。そこで、路線を限定して都電を復活させたらどうでしょうか。例えば江東区では、東西に伸びる路線は充実しているのですが、南北に移動できる鉄道がほとんどありません。特に四ツ目通りの東陽町~錦糸町区間は最重要路線で、バス利用者が非常に多いのですが、ここに都電を走らせたらどうでしょう。途中には区役所、イースト21といった利用者の多い施設があり、葛西橋通り、清洲橋通りといった地下鉄の駅からやや遠い主要道路も走っています。さらに住吉駅では都営新宿線、半蔵門線とも乗り換えができて、とても有用な路線となること相違ないはずです。都営バス東22系統(錦糸町-東陽町)の代わりに、都電復活を願います。

確かに、車線がいくつか潰れるし、電線が増えるので、交通や美観の問題はあるかもしれません。ただ、路上駐車は明らかに減っていますし、車線幅の短縮と道路の拡幅等によりスペース確保は検討の余地はあるのではないでしょうか。電線も美観に考慮して配線すればそれほど気にならないと思います。

とはいっても夢のような話。今は昔の本を見て空想に浸ります。「みんくるバス」のような「みんくる都電」なんて面白いと思うんですけどね。

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秩父鉄道

栃木路とは話が前後するのですが、先週、秩父鉄道に乗りました。都営三田線、西武線、旧国鉄等から譲り受けた古い車輌が同路線で活躍しているというから面白いじゃありませんか。

秩父鉄道に乗るための半日コースとして、池袋~寄居~羽生~錦糸町というルートを決めました。ポイントは、同じ東武鉄道でありながら交わることのない東上線、伊勢崎線を秩父鉄道で繋ぐというところです。実際、同線は東武鉄道の車輌輸送にも使われています。

まずは東武東上線に乗るため池袋に向かいました。私が住んでいる江東区の都営新宿線沿線から池袋までは意外と楽に行くことができるのです。小川町で丸の内線に乗り換えるのですが、新宿線のホームから階段を上がると、すぐ目の前に丸の内線淡路町駅のホームがあるのです。淡路町から池袋まではわずか5駅で、御茶ノ水や後楽園、そして茗荷谷など外の景色を楽しめるポイントも多く、私的にはなかなかご機嫌な区間であります。

さて、池袋に着くとまっすぐ東武東上線のホームへ向かいました。おそらく、子供の頃に一度乗ったきりですので、東上線に乗るのは生まれてから2度目ということになります。目的地の寄居までは1本で行くことができません。急行で小川町まで行き、そこから寄居行きに乗り換えるのです。小川町までは1時間と少々、寄居までだと約1時間半の乗車でしたが、東上線は埼玉の北西部に向かってたんたんと進んでいきました。伊勢崎線のように先に有名な観光地があるわけではないので、スペーシアのような特急もないし、先に進むにつれ家の数が減ってきて、森や林の景色が増えていきました。乗っていてワクワク感はあまりない路線です。

寄居まで池袋から75km、それは東海道線でいえば東京から二宮くらいということになります。終点が近づくと、山の間を抜けていくような線路が続き、平日は大混雑する通勤列車の続きとは思えない風景になっていました。埼玉の山奥にきたという感じで、しかも線路は単線に変わっていました。でも、それは想像通り、期待通りのことで、終点の寄居駅は郊外ののどかな田舎駅でした。ここでは東武東上線の他、JR八高線、秩父鉄道の計3路線が集まっていて、改札を出なくても乗り換えが可能となっていました。しかし、秩父鉄道はパスネットが使えないので、私は一度改札を出て、改めて切符を買いホームに戻りました。ここから熊谷方向、羽生に向かいます。私は埼玉の地理勘があまりないので、ここから羽生までの移動のイメージが沸きませんでしたが、熊谷を通るということで、東京からはかなり遠い外周を西から東へ辿るのだろうと考えていました。新幹線も停車する熊谷駅は、ほとんど高崎に近くて群馬県かと思っていたのですが、あとで調べたら埼玉でした。

羽生方向の電車を待っていると、先に、反対の三峰口行きの列車がやってきました。元都営三田線の車輌でしたが、ステンレスの車輌がここに走っていると、古い車輌でもやけに近代的に見えます。

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三田線車輌が行ってから暫くすると、今度は羽生行きの特急列車がやってきました。何と、特急列車は200円の別料金がかかるというのです。山奥の田舎列車に特急料金を払うのは不満でしたが、やってきたのは旧国鉄の急行形車輌でしたので、優等列車に乗っている気になれて納得しました。でも、この車輌も老朽化のため、もうすぐ西武鉄道の車輌に置き換えられるとのことです。

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羽生へ向かっている途中、虫取り網をもった女の子が走っている姿や、畑を焼いている風景を目にして、微笑ましい気分になりました。終点の羽生に着くと、向かいのホームには旧国鉄の通勤列車がとまっていました。ここは鉄道車輌博物館みたいな路線です。

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写真のとおり、終点の先は東武鉄道の線路と合流して繋がっていることを確認しました。

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東武伊勢崎線、羽生駅には都心へ向かう地下鉄直通列車がきていません。東武動物公園や南栗橋もかなり遠いのに、それよりもさらに遠いわけですから、そのことが都心からの距離を実感させてくれます。帰りは久喜まで出て、半蔵門線の直通列車で錦糸町まで帰りました。約5時間、3,000円少々の旅でございました。

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日光山

あとから電子地図で距離を計測したところ、私は新鹿沼からウェルサンピアまで8~9キロ歩いていました。足の裏には大きな水膨れができていて、歩くとそこが踏み潰されて痛いので、ゆっくりそおっと歩くことしかできなくなっていました。歩いたこと自体は何てことはないのですが、足の裏の痛みが全身に疲労感を拡散しているような感じでした。

翌朝です。私はあまり歩ける気がしませんでしたが、せっかく栃木まで来たので東照宮にお参りして帰ろうと思いました。それにはまずJR鹿沼駅へ出て、そこから日光まで20分少々電車に揺られなければなりません。駅までは当然バスで行くつもりでしたが、なんと1日に数本しかなく、2時間近く待たなければ乗れませんでした。仕方がないので、大通りに出てそこでタクシーを拾うつもりで私は歩き始めました。足を怪我している人のように、一歩一歩ゆっくりと歩いていきましたが、大通りまでは思ったより早く着くことができました。しかし、タクシーが通りそうな様子は全くなく、昨日同様、泣く泣く駅まで歩いていくことになりました。3キロ少々を約50分で歩いて駅に着いたのですが、電車が1時間に1本だったので、ここで約30分待つことになりました。ここではバスや電車を1本逃すと次まで1時間くらい待つのは普通なのです。でも、そういった制約の中で暮らしている人たちの方が、都会の人よりも計画的に、効率的に行動しているのかもしれません。

さて、日光駅からバスに乗り、約10分で目的地の東照宮に着きました。鹿沼のことを思えば楽に歩ける距離なんですが、既に足が限界を超えていたので無理でした。自分では、この地へ足を伸ばしたのは気まぐれという意識だったのですが、今思うと、私はこの山に呼ばれてやってきたような気がします。そして、これだけ歩いたのは自分に課せられた修験なのではないかと思うのです。今は未だその理由はわかりませんが、きっと何か意味のあることなのではないかと考えています。

さて、日光山内の社寺を回るには入場券が必要なのですが、ひと通りセットになっている券が1,300円で売っています。最初、「高い」と思いましたが、東照宮、二荒山神社、輪王寺を参拝、見学できて、要所では僧侶の方が説明してくれます。全部回るのには半日くらいかかりますし、ありがたいお話まで聞けることを思うと、かえって安いかもしれません。興味深かったのは輪王寺で聞いたお話で、干支によって自分をお守りしてくれる守り本尊様というのがあるそうで、私の場合は阿弥陀如来になります(ちなみに阿弥陀さんは慈悲の仏、私にそれが足りないために補っていただくための本尊だそうです)。あと、数珠をもつことの意味や使い方も教えていただきました。

先日、私は仏像の見方の本を買って今読んでいます。ちょうどそんな興味や知識をもって日光山を訪れたので、とても意義がありました。宗教的な興味ということではなくて歴史的な興味なんですけど、「日光はなぜ栄えたんだろう」とか、「お不動様って何だろう」とか、そんなふとした疑問を紐解こうと日本の歴史を学ぼうとすると、仏門と密接に関わってくるのです。そして、その教えを学ぶことはこれから先生きていく上できっと身を助けることになると思うのです。

気のせいかもしれませんが、今回、私は東武線に対する興味から栃木路に誘われ、そして日光山へ導かれたような気がするのです。

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