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April 27, 2012

長崎

1945年8月9日午前11時2分、私の父親の故郷である長崎に原爆が投下された。原爆については学校でそれなりの教育を受けてきたと思うが、広島に比べると長崎については知らないことが多い気がする。

小倉に投下される計画だったが天候の影響で当日に長崎に変更になったこと、爆心地が街の中心から3キロほど外れたこと、広島がウラン型だったのに対し長崎はプルトニウム型原爆だったこと、恥ずかしながら私は最近になって知った。

実は、長崎の原爆は私と無縁ではない。これも恥ずかしながら近年になってから気が付いた事実である。私の父は昭和15年生まれの長崎出身。つまり、5歳のときに長崎で何らかの原爆の被害に遭っているはずだ。しかし、生前、私は父親から原爆の話を一度も聞かされたことがない。おそらく、何か思うところがあったのだろう。なので私もそれについては問うまい。

晩年、父が病院に電話をしている話し声を私は偶然聞いた。「自分は被爆者手帳を持っている」という話し声を。私は大きな衝撃を受けた。父は、あの恐ろしい原爆を体験していたのだ。そのとき、私は生まれて初めてそのことを認識させられた。

平成20年に父が亡くなり、諸手続のため父親の戸籍を調べることになったのだが、そのときに長崎の旧本籍地が判明した。住所は長崎市今博多町。おそらくそこが居住地だったのだろう。しかし、市内にいて、父も祖父母もよく無事だったものだ。市内でも外れの方だったのだろうか。

それから4年経った。私は父親の出生地である長崎を生まれて初めて訪れた。長崎市今博多町は、繁華街からさほど遠くないところに位置している。静かに川が流れる洒落た一角で、ビルと昔ながらの住宅が混在している。そういえば、父は子供の頃に川で魚を取ったりして遊んだと言っていた。この川のことだろうか。

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対岸のベンチに座り、川向こうの今博多町を眺めていると、学生時代の父親が学ラン姿で平屋の家から飛び出てきた。高校へ向かうんだ。きっと家の中には、若い頃の祖父と、自分は会ったことのない祖母が元気な姿でいるんだろうな。そんな平凡で平穏な毎日がこの場所で繰り返されていたのだと、勝手に想像した。

長崎は平地が狭い。さらに、平地を囲む丘陵地は斜面が急で、それにもかかわらず平地と変わらず住宅がひしめき合っている。なので、車が通れる道路は少なく、まともな道路で山の上に向かうにはかなり遠回りとなる。そのため、狭い階段が迷路のように何本も張り巡らされている。階段や坂道はとにかく急勾配で、距離的には効率的に目的地へ向かえるのだが、体力の消費が半端ではない。しかし、この地形こそが私に命を与える遠因なのだ。

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長崎の爆心地は松山町というところで浦上と呼ばれている地区だが、私はこの地にある原爆資料館を訪れた。館内では、原爆投下当日の様子や、その影響範囲、爆発後の悲惨な街や人のの姿、原爆投下後の放射能による影響などが、模型や実物、写真や映像でわかりやすく展示されていた。

爆心地は長崎の中心地から約3キロ外れている。しかし、徒歩で15分から20分くらいの距離で、半径1.5キロの致死率は100パーセントというほどの威力を思えば、3キロ離れていても大方無事では済むまい。実際、中心部でも大きな被害が出ている。

資料館には被害範囲を示した街の模型が展示されているのだが、私は今博多町の位置をスマホのgoogle mapで確認しつつ、被害範囲との位置関係を模型上で確認してみた。今博多町は中心部から歩いて10分ほどの、目と鼻の先の場所である。そこは被害が少ないエリアに属していたが、爆心地から見ると山を挟んだ遮蔽の位置関係にある。この山は金比羅山というが、入り組んだ地形が爆風を遮ったのだ。

爆心地周辺の写真には、真っ黒な死体が多数映っていた。戦争、原爆の真実だ。こんな恐ろしい地獄絵図を、5歳の父は目の当たりにしたのだろうか。それにしても、直接的な被害からは逃れたとはいえ、よく無事に生き残ってくれたものだ。今、私の命があるのも、そのことがあるからに他ならない。あいにく、父の存命中にこのことを感謝することはできなかったが、その代わり、戦争に耐えた人々、復興を支えた人々の上に我々の生活があるということを、後世に伝えていきたいと思う。

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