September 01, 2008

春琴抄(しゅんきんしょう)

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先日、日本映画専門チャンネルで「賛歌」(1972年)という作品を観たのですが、それに描かれていた盲人の三味線師匠春琴と、春琴に仕える丁稚佐助の関係に興味を惹かれ、原作の谷崎潤一郎「春琴抄」を読んでみました。

佐助は、春琴の食事、入浴から下の世話に至る全ての身の回りの世話をこなし、さらには罵られ、殴られ、声を上げて泣き出してしまうほどの厳しい稽古に耐えながら、それでも高圧的な春琴に仕えることに幸せを感じるという、度を超えて献身的な男性です。挙句の果てに、何者かに顔にひどい傷を負わされ、誰にも姿を見られたくないと心を閉ざした春琴のために、自ら針で目を突いて春琴同様盲人となり、「もう(春琴の)お顔を見ることはござりませぬ」と引き続き春琴仕えたいと懇願したのです。

映画を見ていても小説を読んでいても、私はこの佐助を特異な性質の男、つまり相当なマゾヒストだと最初は思っていました。そして春琴と佐助の関係も、世の常識から見ても特別なものだと。でも、よく考えてみると、実はそうでもない気がしてくるのです。佐助のように、男性が一方的に一人の女性のために全身全霊を尽くすというのは、実は男性の本性なのではあるまいか、しかし、そうすることに格好悪い、恥ずかしいといった理性が働くのも同時に本性なのではあるまいか、と思えてくるのです。「春琴抄」は耽美主義を描いた作品とされていますが、そういった理性を排除して男女の本質を純粋に抽出すると、最高の美が描ける、それが春琴と佐助なのではないでしょうか。

作品の中では色々な「美」が彩を添えているのですが、盲目の世界もそのひとつです。盲人は、目が見えない分、他の感覚は目あきの人よりも冴えそれを補い、また、目あきの人には感じ得ない世界があるのだという旨のことが書かれているのですが、少しだけその感覚は私にも理解ができます。ステレオで音楽を聴いているとき、目を閉じて聴いているときと、目を開けて聴いているときとでは、感じ方が全く異なるのです。目を閉じているときの方が、圧倒的に神経が音に集中しているのです。なので、盲人の人は視覚は働かなくとも、その分、他の神経が研ぎ澄まされているのですね。それにしても、盲人の春琴と同じ世界に飛び込んでいき、それをこの上ない喜びと感じる佐助と、それを受け入れて同様に喜ぶ春琴。この物語における耽美主義の頂点です。

最後に、この「春琴抄」の文体における特徴に触れておきたいと思います。文中「、」「。」が極端に少なく、一見、どこで文章が切れるのかよくわからないのです。しかし、文章に一律のリズムがあって「、」「。」がないことはさほど苦になりません(私の感覚ですが…)。本来なら「、」「。」が存在するところが、読んでいると自然に見えてくるのです。これは、盲人の世界を感覚的に表現しようとしているのではないでしょうか。盲人にとって目が見えないということは、小説にとって「、」「。」が少し足りないくらいのことで、「、」「。」が多少なくても小説は普通に読めるのと同じように、目が見えないからといって目が見える人と大きな違いはないのだという、著者のメッセージと私は受け取りました。

「春琴抄」は昭和8年の作品で、今では馴染みのない言葉も多く、現代小説のようにはスラスラ読めない小説ではありますが、そういう作品を読む場合、映画を先に見てそれから小説を読むと入ってきやすくてよいと思います(映画化されている場合に限りますが…)。

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August 17, 2007

林家三平

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随分前のことですが、テレビ番組のインタビューでミヤコ蝶々さんが「寝る前には落語を聞いている」というお話をされていました。何となく「いいなー」と思って、それ以来、私も真似して時々寝ながら落語のCDをかけているのです。

CDは1枚しか持っていないのですが、その唯一の1枚は林家三平のライブです。1枚しかないので、もう何十回聞いたかわかりませんが、最近になってその魅力を強く感じるようになりました。

私は林家三平をリアル・タイムでは見ていません。アルフィーの坂崎幸之助が大の三平ファンだっかことから、アルフィーファンの私もその影響で、三平の没後にその存在を知ることになりました。聞いた話や調べたところによると、型破りな反面、ギャグや小話が多く、「あれはくだらない」「あんなのは落語ではない」といった批判も多かったそうです。しかし、CDに収録されている「源平盛衰記」を聞いていると、講談の調子には素晴らしいものがありますし、何度も脱線して途中に小ネタを挟むのですが、それが本編と一体化しているかのように作り上げられているところが凄いと思います。

繰り返し聞いていると、まるで音楽のようなリズムで話が流れていることに気付かされました。そう思えてくると、音だけ聞いているだけで心地よいのですが、ミヤコ蝶々さんが寝る前に落語を聞くというのもその辺に理由があったのかもしれませんね。リズムは噺家さんによっていろいろだと思いますが、ちなみに三平落語はテンポが良いので爽快な感じがします。

最近、私は「音楽好き」という粋を越えて「音好き」になっています。以前は、乗り物に乗っているときは必ずヘッド・フォンで音楽を聴いていたのですが、最近は乗り物の走る音が楽しくて、音楽を聴くのはやめて電車やバスの音を聞いています。そんな私が次にハマる音は「落語」かもしれません。

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June 06, 2006

杉良太郎 絵画展

上野松坂屋で開催中の、「杉良太郎 絵画展」へ行ってきました。学生時代はたまに美術館へ行って絵を見た記憶がありますが、社会人になってからは初めてかもしれません。

杉良太郎先生が描かれているのは油絵です。驚いたのは、絵を描き始めたのがわずか15年前のことで、しかも独学で始められたということです。私は芸術のことはよくわかりませんが、歳を取ってからでも自分の知らない才能が開花するということがあるのですね。

私は、展示された作品、説明文から何かを感じ取ろうと、夢中で絵と文字を追いかけていきました。展示は春夏秋冬の4コーナーが順に続いていて、花を描いた作品が多いので、純粋に季節感を楽しむこともできました。

春は桜を描いた作品が大半でした。どの絵もダイナミックかつ繊細で、左と右、手前と奥、明と暗、濃と淡といったいろんな対称をバランス良く取り入れているように思えます。しかも、そんな多彩な要素を詰め込み過ぎず、程よく1枚の絵の中に取り入れているところがセンスの良さなのでしょう。きっと、舞台の演出と同じ気配りなのだと思います。春で印象に残ったのは「岐路に立つ」という作品なのですが、中央に満開の桜の樹が大きく描かれていて、その両脇に左右それぞれの方向に道が伸びているのです。人生の別れ道を暗示しているのでしょう。そう聞くと、迷いとか、悩ましいイメージが思い浮かぶのが普通でしょうが、その絵の様子は全く反対で、華やかで、優雅で、そして堂々と地に座る大きな桜の木が、見る人を勇気づけてくれるのです。きっと、「左へ行っても右へ行っても正解なんだよ」という先生のメッセージなのだと思います。

夏はあじさいやひまわりの絵がたくさんありました。春はさくら、夏はひまわりといった真っ向勝負のようなわかりやすさに、作者の性格が垣間見えます。さて、それぞれの作品には主題となっている花や山が大きくわかりやすく描かれているのですが、その背景に目を移すと、そこには空や水が控えめながらも生き生きと描かれているのです。不思議なのは、写真のようなリアル感はなくて、確かに人によって描かれている背景なのに、なぜか本当に空を見たり海を見たりしたときと同じように自身の五感が反応するのです。そして、そんな風に見とれていると、自分がそのまま絵の風景の中に入れてしまうような気さえしてきます。

秋は夕陽や紅葉の赤い色の作品が目立ちました。「朝焼けの富士」という作品があるのですが、富士山がキャンバスいっぱいに大きく描かれていて、富士山がその左側から陽に照らされていました。その照らされて染まっている山肌の赤色が、「色」という枠を飛び越えて、陽の暖かさをも感じさせてしまうほど、見ている人の感覚に直接飛び込んでくるようでした。絵に向かって両手をかざしたら、本当にあったかくなりそうでした。

冬の絵はそれまでの優しい印象とは異なり、直線部分が多くて引き締まった厳しい雰囲気を感じました。それでも一緒に描かれている木や空にはやわらかさがあって、厳しい中にも優しさが添えられているように思いました。

他にも動物や仁王像を描いたもの、そして自画像もあって、盛りだくさんの絵画展でした。私のような素人でもこれだけ感想が書けてしまうくらい、作品からたくさんのことを感じ取ることができました。

杉先生が仰っている描きたい対象に出会ったときに「筆を取りたくなる」気持ち、良い作品が描けそうなときの「ドキドキ感」というのは、失礼ながら、私が書きたい対象に出会ったときの「パソコンに向かいたくなる」気持ち、良い文章がかけたときの「ワクワク感」に通じるものを感じました。

絵画展は本日、6日までとなっております。お時間のある方は是非、上野松坂屋へ足をお運びになって下さい。

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