春琴抄(しゅんきんしょう)
先日、日本映画専門チャンネルで「賛歌」(1972年)という作品を観たのですが、それに描かれていた盲人の三味線師匠春琴と、春琴に仕える丁稚佐助の関係に興味を惹かれ、原作の谷崎潤一郎「春琴抄」を読んでみました。
佐助は、春琴の食事、入浴から下の世話に至る全ての身の回りの世話をこなし、さらには罵られ、殴られ、声を上げて泣き出してしまうほどの厳しい稽古に耐えながら、それでも高圧的な春琴に仕えることに幸せを感じるという、度を超えて献身的な男性です。挙句の果てに、何者かに顔にひどい傷を負わされ、誰にも姿を見られたくないと心を閉ざした春琴のために、自ら針で目を突いて春琴同様盲人となり、「もう(春琴の)お顔を見ることはござりませぬ」と引き続き春琴仕えたいと懇願したのです。
映画を見ていても小説を読んでいても、私はこの佐助を特異な性質の男、つまり相当なマゾヒストだと最初は思っていました。そして春琴と佐助の関係も、世の常識から見ても特別なものだと。でも、よく考えてみると、実はそうでもない気がしてくるのです。佐助のように、男性が一方的に一人の女性のために全身全霊を尽くすというのは、実は男性の本性なのではあるまいか、しかし、そうすることに格好悪い、恥ずかしいといった理性が働くのも同時に本性なのではあるまいか、と思えてくるのです。「春琴抄」は耽美主義を描いた作品とされていますが、そういった理性を排除して男女の本質を純粋に抽出すると、最高の美が描ける、それが春琴と佐助なのではないでしょうか。
作品の中では色々な「美」が彩を添えているのですが、盲目の世界もそのひとつです。盲人は、目が見えない分、他の感覚は目あきの人よりも冴えそれを補い、また、目あきの人には感じ得ない世界があるのだという旨のことが書かれているのですが、少しだけその感覚は私にも理解ができます。ステレオで音楽を聴いているとき、目を閉じて聴いているときと、目を開けて聴いているときとでは、感じ方が全く異なるのです。目を閉じているときの方が、圧倒的に神経が音に集中しているのです。なので、盲人の人は視覚は働かなくとも、その分、他の神経が研ぎ澄まされているのですね。それにしても、盲人の春琴と同じ世界に飛び込んでいき、それをこの上ない喜びと感じる佐助と、それを受け入れて同様に喜ぶ春琴。この物語における耽美主義の頂点です。
最後に、この「春琴抄」の文体における特徴に触れておきたいと思います。文中「、」「。」が極端に少なく、一見、どこで文章が切れるのかよくわからないのです。しかし、文章に一律のリズムがあって「、」「。」がないことはさほど苦になりません(私の感覚ですが…)。本来なら「、」「。」が存在するところが、読んでいると自然に見えてくるのです。これは、盲人の世界を感覚的に表現しようとしているのではないでしょうか。盲人にとって目が見えないということは、小説にとって「、」「。」が少し足りないくらいのことで、「、」「。」が多少なくても小説は普通に読めるのと同じように、目が見えないからといって目が見える人と大きな違いはないのだという、著者のメッセージと私は受け取りました。
「春琴抄」は昭和8年の作品で、今では馴染みのない言葉も多く、現代小説のようにはスラスラ読めない小説ではありますが、そういう作品を読む場合、映画を先に見てそれから小説を読むと入ってきやすくてよいと思います(映画化されている場合に限りますが…)。




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